去る2017年1月1日、日本時間の午後7時から、音楽の都ウィーンでニューイヤーコンサートが行われた。普段は、老人が持ち回りで指揮するコンサート(案の定、来年は5回目の登壇となるムーティ、甲子園の常連校か)かつ、舞踏曲を数時間座って聞かせられる倒錯感にいたたまれず、全く見ない。興味もない。
しかし、今年は、開始時間にあわせてテレビの前で始まりを待った。
今年の指揮者は、ベネズエラ出身の35歳、グスターヴォ・ドゥダメルだったからだ。
以前もドゥダメルには当ブログで触れたことがあるが、”ベネズエラの貧困の中から生まれたスーパースター”というだけでなく、彼のリベラルな音楽は、西海岸における「死せるアメリカの伝統」を体現するとともに、アメリカーベネズエラという歴史問題をつなぐ文化外交としての側面についても指摘した。
また、純粋に、彼は私と同世代のスターであるため、彼の動向が気になる。さらに、ベネズエラという、非ヨーロッパ圏、すなわち非クラシック音楽圏の人間であるため、ポストモダン、これからのクラシック文化の行方という大きな流れの中でも注目である。
演奏の方はどうだったかというと、ドゥダメルは最初からちょっと緊張気味で、途中から持ち前のリズム感とドライブ感を発揮した。どちらかというと、速めのテンポの曲が多く、ドゥダメル特有のラテンのリズム感で捌いていった。
今回のニューイヤーコンサートでドゥダメルに期待していたのは、プログラムだ。
ニューイヤーコンサートのプログラムは、その成り立ちからしても、基本的にはヨハンシュトラウス一家に関する権威(ヨハンシュトラウス協会会長や音楽学者等)が一堂に会して曲目をピックアップし、ウィーンフィルと指揮者に投げて、最終的な決定をする。
このような過程を経るので、プログラムは必然的にヨハンシュトラウスファミリーばかりになる。
もちろん、コンサートの趣旨からは当然なのだが、コンサートプログラムとしてはかなりつまらない。はっきり言って飽きる。
ポルカもワルツも同じような曲ばかりなので、気がめいってくる。
そこで、音楽性を重視すると、プログラムも伝統等に挑戦することになる。アーノンクールのような尖った指揮者はブラームスを取り入れたり、最近はモーツァルトの序曲を取り上げた例もあった。
紅白歌合戦がわけのわからない演出をして必死で目新しい雰囲気づくりをしているのと同じで、ニューイヤーコンサートも、必死なのである。
そんな中、クラシック界の切り札、しかも非クラシック音楽圏からきたドゥダメルの登壇だ。私は、かなり奇抜なプログラムを期待した。
ヨハンシュトラウスなんかほとんどなし、ドイツ・オーストリア音楽もそこそこに各国の音楽を演奏し、最後は美しく青きドナウもやめて、ウエストサイドストーリーの『マンボ』でおしまい、と妄想を膨らませていた。
事実、2013年のウィーンフィルとのツアーは、意図的にプログラムをロシア、フィンランドの作曲家をメインに据えて、ポストモダンを演出していた。
今年のニューイヤー直前に発売されたドゥダメルとウィーンフィルの新譜は、展覧会の絵がメインで、唐突に最後のトラックがチャイコフスキー『白鳥の湖』より”ワルツ”。なんだなんだ、これは確実にニューイヤーで白鳥のワルツをやるんじゃないか。
そんな妄想にまみれながら、テレビの前でドゥダメルの登場を待った。
ふたを開けてみると、私の妄想は完全に裏切られた。ヨハンシュトラウスの中では取り上げられない作品の初出等はあったものの、基本的には徹頭徹尾ヨハンシュトラウスファミリー関係曲のみ、チャイコフスキーはおろか、非ヨーロッパ圏の音楽なぞかすりもしなかった。
演奏自体は悪いわけではない。しかし、ポストモダンは?新しい時代の幕開けは?
困惑しながら、とうとう最後から数えて二曲目、美しく青きドナウまで来てしまった。
ここもニューイヤーコンサートの恒例の儀式で、ドナウの冒頭を演奏し、すぐに観客の拍手とともにいったん中断し、指揮者と楽団が新年の挨拶をする。
ここに毎年指揮者の個性が現れる。小澤征爾が登壇したときは、満州生まれということで中国語で挨拶をしたり、メータは「ルーマニアの欧州連合加盟を歓迎します」、2009年にのバレンボイムにいたっては、「中東に人間の正義を」という政治的なメッセージを伝えた。
ドゥダメルはいったいこの新しい時代の幕開けに際して、どのようなメッセージを語るのだろう。
ここでもドゥダメルは、ドイツ語でHappy new year!と楽団と挨拶をするのみ、何のメッセージもなかった。
どうしたんだ、期待しすぎたのか、思いを乗せすぎたのか。混乱の中、ドナウの始まりへ、ドゥダメルが位置についた。
ここからが、凄かった。
美しく青きドナウの冒頭、最微弱音の弦のトレモロからの日の出を告げるようなホルンが鳴る。まるで本当に暖かい日差しが差し込むようだった。私はまた困惑した、なんだこのドナウは。
ドゥダメルは、天を仰ぎながら、祈るように、深く音を愛でるように、指揮棒をゆっくりと上下させた、楽団も呼応するように万感の想いを込めて、演奏した。
このとき、天を仰ぐドゥダメルの視線は、何とオーバーラップしていたのか。
そうだ、ベネズエラの路上を歩く、幼いドゥダメル自身だ。
ドゥダメル自身は最貧困ではなかったものの、彼自身が音楽を学んだエルシステマは、ベネズエラの貧困地域から、貧困にあえぐ子供たちを選抜し、音楽教育を通じて路上生活からの救出を企て、貧困を打破するプロジェクトである。
ドゥダメル自身、「私の周りには薬物や犯罪が蔓延していた。音楽が、私をそれらから遠ざけてくれた」と話している(2009年)。
彼が共に学んだ同世代の子供たちは、ストリートチルドレンで薬物・アルコール中毒や物乞い、強盗、さらには人身売買の対象になるような子供たちばかりだった。
そこから十数年、ドゥダメルは世界でもっとも権威あるウィーンフィルのニューイヤーの指揮台に立って、もっとも伝統ある場面において「美しく青きドナウ」を演奏している。ドゥダメル自身こそが、それを想像しただろうか。
ドゥダメルが仰いだ天の先には、ベネズエラの路上へのまなざしがある、彼は常にそことつながっている。
あのドナウは、35歳にして、音楽的にだけでなく、政治的にも凄まじい重圧や責任を背負いながら、あのウィーン学友協会の指揮台と祖国の日常風景を結実させた、ドゥダメルの喜びの歌だ。
何も特別なメッセージや奇抜なプログラミングなど必要なかったのだ。ベネズエラの路上とウィーン学友協会の指揮台が結びついた、その物語の中では、ウィーンの伝統に従い、ヨハンシュトラウスを堅実に演奏すること自体が、重要だったのだ。
そのフィナーレが、あの最後の美しく青きドナウである。緊張と恍惚が入り混じりながら、ドゥダメルの人生物語の喜びの歌は、その後のラデツキーの喧騒に飲まれていった。
幻のようなドナウ。私はあんなに感動的な美しく青きドナウを知らない。
おそらく彼には、昔の指揮者に我々が見ていた、音の交通整理という技術的なレベルを超えた何かを音楽に乗せて伝える能力があるからこそ、惹かれるのだろう。
それは、彼自身が持つ人間ドラマであり、これを追体験することを通じて、我々は自分たちの物語にも思いを馳せる。
ドゥダメルを聴く人間は、みな自分とドゥダメルとの物語を語りたがる。まさに、彼と「共に生きている」のである。
最大の懸念は、彼が「消費」されることだ。コンテンツとしても非常に価値が高いので、市場は放っておかない。しかし、本来芸術は、市場の失敗の延長線上にあるものであり、公共財に近い。
我々がこれからもドゥダメルとともに生きるために、彼が市場(聴衆)に殺されないように、本当の意味で聴き手が彼を尊重することが求められる。そして、是非同時代を生きる我々も、このスターの物語と共に、豊かな自分の物語を生きていこうと思う。